コロナ禍を経て4年ぶりに「ヒロシマ平和の旅2023」を開催しました。これまでは広島に原爆が投下された8月6日前後に2泊3日の日程で訪問していましたが、広島市内や平和資料館が大混雑することから訪問時期をずらして7月下旬とし、また日程を1泊2日とし、より多くの方に参加していただくことを目指しました。
【開催の目的】
(1)被爆地広島を実際に訪れ、”原爆の脅威を肌で感じ、平和の大切さを考える場“とする。
(2)家族で行動することにより、平和をテーマに“家族で語り合う場”とする。
【参加者】組合員7家族22名(おとな10名・こども12名)、事務局4名(※35家族・個人から応募がありました)
【実施内容】
(1)ガイダンス 7/22(土)ALWFロッキーセンター・大会議室
出席家族は2つのグループに分かれて自己紹介をしました。事務局より平和の旅の概要説明後、家族でミーティングタイム。「この旅で楽しみにしていること」を話し合いました。「原爆ドームを見たい」「平和の大切さを考えたい」「広島焼を楽しみたい」などが発表されました。「ガイダンスで顔合わせしたことで、安心して旅に参加することができた」との声もいただくなど、とても和やかな場となりました。
(2)ヒロシマの旅 7/28(金)~29(土)
県内各地からこだまに乗車、名古屋でのぞみに乗り換えて広島へ。「被爆者の講話」「平和公園内碑めぐり」「平和資料館見学」を行いました。
<被爆者の講話 桒本勝子(くわもとかつこ)さん(84)>
被爆当時桒本さんは小学校1年生の6歳でした。母と別れ親戚の家に姉とともに疎開をしましたが、食べ物がなく、おなかがすいていました。その家には4家族が避難して住んでいて、食べ物がなくなるといつも桒本さん姉妹のせいにされました。辛くて辛くて、8月5日に家に帰った時に、避難先に帰りたくないと泣きました。しかし近所の方から、あなたたちがいると空襲にあった時お母さんが逃げられないから帰りなさいと、桃を2つもらい、機嫌を直して疎開先に戻りました。その翌朝、桒本さんが学校にいたとき原子爆弾が落とされました。窓ガラスが割れて、窓の近くにいたクラスメイトの女の子は頭から窓ガラスを浴びて大けがをしました。桒本さんは無事でした。実家方面(広島中心部)は火の海で、とてもではないが入れません。3日ほどしてから母親を探しに行きましたが、市内は死体がたくさんあり、もとの顔がかわからないほど1.5倍に膨れていました。母は見つかりません。結局母は近所の人と3人で比治山の反対側まで逃げて畑の中で寝ていたそうです。しばらくして母親が知人と一緒に帰ってきました。母は白い顔をしていました。秋になり母は倒れて吐血。その時は肺結核だと思っていました。もうダメかも・・・という状態でしたが、父が帰ってきて、輸血を受けると母は少しずつ良くなってきました。その後乳がんになり、肺に水がたまり、脳にもガンができて亡くなりました。絵を見せながらのお話しだったので、子どもたちも原爆や戦争が怖いと感じることができました。
<原爆ドーム・原爆死没者慰霊碑・原爆の子の像>
講話のあと広島電鉄に乗り原爆ドームへ。平日でしたが混雑していました。原爆ドームの前で記念撮影をしたあと、「原爆ドーム」「原爆死没者慰霊碑」「原爆の子の像」を訪れ、事務局から由来などを説明しました。
<平和記念資料館見学>
資料館の中は当時の写真や資料が多く展示されていることから「ゆっくり見たい」との要望を受けて、見学時間を1時間45分とり自由に見学していただきました。戦争の悲惨さをじっくり学ぶことができました。夏休み期間ということもあり入場者が多く、行列ができるほどでした。
<2日目は終日フリー>
2日目は朝から自由行動としました。宮島・厳島神社を訪れた家族、呉まで足を延ばした家族、さらにはもう1泊した家族もあり、夏の広島を満喫しされたようです。
(3)振り返りの会 8/26(土) ALWFロッキーセンター・大会議室
全7家族が参加し、被爆体験や資料館で学んだことを子ども自身がパワーポイントにまとめたり、自宅に帰ってから原爆・戦争に関係する本を30冊読んでお勧めの本を紹介したり、旅の思い出をイラストにまとめたりなど、各家族が平和への思いを表現しました。ほかの家族と交流しあうことで、様々な視点を知る機会になりました。